唯脳論 (ちくま学芸文庫)

感銘を受けた文章。
・脳の未来像は2つある。1つは計算機との接続で、これは両者のインタフェースの性質に依存するところが多きく、計算機からの結果を脳へ接続する(臓器を人へ繋ぐ)のだからうまくなかなかうまくいかない。
第2の方向は、ヒトの脳そのものを変更すること。300万年の進化過程の中で、ヒトの脳は約3倍の大きさになった。これがうまくいけば、計算機が全体としてヒトの脳を置換するよりも、理想的な方法になること間違いない。進化の過程では、それが実際に起こってきたことなのだから。これ以上、動物の脳を大きくしても無駄だという、論理的結論が得られそうなら話は別だが、それがないとしたら、もう少しヒトの脳を膨らませてみる他はあるまい。
神経細胞が脳の中でできるだけお互いどうしがつながりあることによって、お互いに「抹消」あるいは「支配域」を増やす。それによって、お互いを維持する。これが意識の発生である。意識がそういうものだとすれば、その単純な生物学的意義とは、神経細胞の維持である。故に、思考なり意識なり自我なり、そういうものが、ほとんどの場合、自慰的であってそれ以外のものではないことは、極めて論理的である。
・構造と機能、視覚的要素と聴覚的要素の関係はよく似ている。構造では時間が量子化され、機能では流れる。視覚は一瞬の像であり流れる時間の要素が抜け落ちる。音は画像と違って時間軸の上を進む。つまり、聴覚は時間を前提あるいは内在化している。
・哲学者の中村雄二郎氏、解剖学者の三木成夫氏は「形はリズムだ」と。脳からすれば、これは一種のルール違反である。リズムは聴覚−運動系の基本的な性質。大脳皮質の中で話が発展し、その結果、視覚系の話が聴覚系に飛び出してしまった。しかし、これは極めて本質を得た解答ではないか。つまり、形にもっともかけたものこそ、リズムすなわち時間における繰り返しであって、ヒトの意識はまさにそれを「連合」した。基本的な連合は、まず言語として表現され、「形はリズム」になる。
前頭葉には時計細胞とよばれるものが存在する。一定の時間間隔で放電するから。こうした「短い繰り返し」は、時というより、「リズム」として感じられる。リズムは、身体の各筋の運動を、一つの作業目的に向かって協調させる。会話のなかで適当な相槌や間もまた、このリズムに関係するところであろう。リズムは音や動作が存在している時間部分であり、「間」はそれが存在していない時間部分である。あるいは、リズムが変調する部分である。両者はいわば、陰陽の関係にある。
・動物の行動は、程度の差こそあれ、合目的的である。なぜなら、行動はそうなる(そうみえる)ように進化してきたからである。脳の進化はその延長線上にある。なぜなら、脳は行動を支配し統御するように進化してきたからである。われわれの脳は、それをついに「目的論」として表明するようになった。古典的な科学者のように、動物の行動が「合目的的とは言ってはいけない」すなわち「目的論は科学的ではない」と拡張するのも、当然誤りである。